協会紹介


起立工商協会について

起立工商協会の設立

平成27年10月に策定した「上峰町まち・ひと・しごと創生総合戦略」において、農業の6次化産業化を図るとともに、交流拠点として道の駅などの施設整備を行うこととしており、こうした農業施策と町の観光資源(鎮西山、米多浮立、八藤丘陵の太古木、温泉施設など)を関連付けすることにより、町の魅力の磨き上げと情報発信を行う「タウンプロモーション事業」に着手しました。
観光業、農業、商工業、情報通信業等、タウンプロモーションに関わる町内の関係者や外部の有識者等を招集し、意見交換・議論の場やシンポジュウムを開催。議論を供するとともに「観光地経営」の視点に立った観光地域づくりの舵取り役として平成29年3月に「一般社団法人起立工商協会」を設立しました。
特に上峰町は、佐賀市、鳥栖市、久留米市等の都市間交通の要所に位置することから、そうした地域からの集客を促すとともに、近隣に位置する吉野ヶ里遺跡の観光客を本町へ誘導するなどにより、交流人口を増大させ、町の活性化を図ることおよび外郭団体として、地方公共団体の組織の外にありながら,上峰町から種々の援助を受け,行政を補完するような事業や活動を行う事を目的としています。

由来

起立工商協会は、明治時代初頭、日本の美術品や物産品を世界に輸出した日本の貿易会社の礎といわれている「起立工商会社」が名前の由来となっています。

起立工商協会の経緯

2014年12月

国が2060年に1億人程度の人口を確保する中長期展望を掲げ「まち・ひと・しごと創生長期ビジョン」及び2015年から2019年の政策をまとめた「まち・ひと・しごと創生総合戦略」を閣議決定

20153

早期実施で効果が高まる施策についてスピード感を持って実行するため、平成26年度一般会計補正予算に盛り込み地方版総合戦略を前倒しする形で実施する地域活性化・地域住民生活等緊急支援交付金「地方創生先行型(オンライン英会話)」と地域内経済の活性化に直接的に寄与する「消費喚起・生活支援型(プレミアム商品券)」の二本立てで実施

20154

「地方創生人材支援制度(日本版シティーマネージャー制度)」の申請を行い4月に人的支援(副町長)を頂く

20154

国からの情報支援として整備して頂いた「地域経済分析システム」(※RESAS)を活用し、産業・人口・社会インフラなどに関し必要なデータ分析を行う説明会を開催

20156

5ヶ年の地方版総合戦略を策定する為に「産官学金労言」から構成される総合戦略策定委員会を発足

201510

地域課題を抽出し2015年度から5ヶ年の「上峰版総合戦略」と「上峰人口ビジョン」※2060年人口目標7800人)を策定

2016

平成27年度(28年度実施)地方創生加速化交付金事業
①ビッグデータ分析による「儲かる農業」の育成事業②観光交流拠点整備を進めるタウンプロモーション事業に着手

201611

ふるさとチョイス運営会社の須永珠代社長等とふるさと納税を生かしたまちづくりについて語り合う「ふるさとシンポジウム」を開催し、タウンプロモーションに関わる町内の関係者や外部の有識者等を招集し、意見交換・議論としてのタウンプロモーション協会を設立することを町長が宣言

20173

観光で農業、商工業、情報通信業等ともに「観光地経営」の視点に立った観光地域づくりの舵取り役として平成293月に「一般社団法人 起立工商協会」を設立

20177

DMO設立申請
DMO候補法人として観光庁に登録

20171

地方創生推進交付金をDMO候補法人として申請

20173

地方創生推進交付金内示

20184

起立工商協会が佐賀県観光協会連盟に加盟

起立工商会社について

起立工商会社は、1974年(明治7年)日本政府と強く連携して国内の優れた工芸品や美術品を海外に紹介し文化産業を育成すると共に、日本ブランドをプロモーションし存在感をアピールする事を使命として設立されました。

会社成立の契機は、1873年(明治6年)、オーストラリアのウィーン万国博覧会と言われております。博覧会では、明治政府が総力を結集し、日本の美術品や物産品を集め、出展したところ、大勢の外国人が関心を寄せ、日本の会場は連日賑わい、緻密かつ壮麗な美術工芸品は欧州人の日本観を変えるきっかけとなりました。
ウィーン万国博覧会終了後、イギリスのアレキサンドル・パーク社が好評を博した日本の庭園を買い取りたいと申し出て、博覧会事務局に商品の保証を求めてきました。しかし、政府として参加しているため、博覧会事務局は関与できず、団長であり副総裁であった伯爵・佐野常民の指名で、当時、海外へ佐賀県嬉野茶の玉緑茶を輸出し実績を残していた松尾儀助を社長に、道具商として参加していて美術・工芸の知識も深かった若井兼三郎を副社長に任命、急遽、半官半民の貿易会社「起立工商会社」を設立し、日本庭園の販売に至りました。

翌1874年(明治7年)、政府に全権を託された松尾と若井は銀座・竹川町16番地(現・銀座7丁目)に事務所を開設。以後、製造所を2箇所建設し美術工芸品を製造しました。
最盛期には80余名の社員と、日本全国から様々な職種の精鋭をあつめ、100名以上の技工を雇用し、その製作品は世界で行われた万国博に出品され、多くの金賞を獲得、後に外貨を稼ぐ主要な美術品となっていきました。

その後、1876年(明治9年)にフィラデルフィア万国博覧会に参加。は博覧会にてアメリカ人の心をつかみ、需要を確信した松尾儀助は翌年1877年(明治10年)にはニューヨーク支店を回転しました。ニューヨーク支店の開設については後に大隈重信が「紐育(ニューヨーク)日本人発展史」の序の中で、「松尾儀助氏が起立工商会社を起こして日米貿易の礎を築き・・・」と記しており、日米間の貿易の画期をなす快挙となりました。

またその翌年、ニューヨークの成功に自信を得た松尾は、1878年(明治11年)のパリ万国博覧会の開催と合わせて、キャプシーヌ通りにパリ支店を開店。当時無名だったフィンセント・ファン・ゴッホも起立工商会社に来店し、バルセロナ万国博覧会とパリ万国博覧会のため準備に渡欧していた松尾から起立工商会社と墨書きされた嬉野茶の茶箱のプレートを譲り受け、それをキャンバスに「Still Life With Three Books」と「Small Basket with Flower Bulbs」の二枚の油彩画を描いています。(現在、アムステルダムのゴッホ美術館所蔵)

1881年(明治14年)の政変後、急激な円高などで経営が切迫し、1891年(明治24年)には廃業となりましたが、明治初頭多大な国益をもたらし、日本の美術工芸品の発展に貢献し、山中商会を始めとする後の貿易会社の礎となりました。

上峰町ポータルサイト